までいの力
スローライフ、ローカリゼーション、トランジションタウン等。
行き過ぎた経済成長と、性急で機械的な価値観の蔓延を顧みて、
より人間的で持続可能な社会への移行を世界中が試みています。
小学生を対象に沖縄研修旅行を実施したり、中学生に大学の講義
を体験させる等して子供の好奇心と、広い視野を育てる。
間伐材でボイラーを運転したり、都会の人を「田舎暮らし」イベント
に招く等して地域にある自然を上手に利用する。
全国初の村民債で次世代のための投資を行い、世代の繋がりの
意識を高める。
本書に紹介されているたくさんの事例から、飯館村は日本の自治体
の中でもこのような試みの先駆者だったことが伝わってきました。
それも、カタカナ語より魅力的で暖かみある「までい」という方言を柱にして!
そんな彼らの暮らしが3.11後、ファーストライフや持続的でない大量
消費社会の中心にある首都圏を支える原発事故のために計り知れない
困難に直面することになるなんて・・・
余りに強烈な対比に心が痛みます。
復興への道は、国内でも前例のない大変な過程だと思いますが、
村民の皆さまの"までいの力"と早期の復興を信じています!
美しい村に放射能が降った ~飯舘村長・決断と覚悟の120日~ (ワニブックスPLUS新書)
平成23年3月15日朝方、評者は、一睡もせず、暗闇の空を「天気予報通り福島市に雨が降るかどうか」見守り続けていた。もし、雨が降れば、多分、人口30万都市が途方もないパニックに陥ることだろう。これは、直感である。このとき、放射線が風向きの影響を受け、浪江街道を川俣町から西北に福島市まで迫っていることは報道されていなかった。福島市民は原発から70キロ離れているからと、安心して、牧歌的な状況にいた。「不要のパニックが起きるから」ということを理由に官邸が報道管制を強いていたことを福島県民は、後に知ることになる。「スピーディ」は機能せず、代わりに、20キロ圏内30キロ圏内といった形式主義が幅をきかしていた。そして、この日、雨と雪は、福島市の中心部には降らず、代わりに飯舘村と福島市郊外に降った。このことが、飯舘村の運命を決めた。
この本は、菅野典雄という畜産農家が、公民館館長から村長として6100人の村民の命運を託され「村おこし」に賭けてきたその半生と、大震災以降の様々な国とのやりとり、行政の責任を論じたものである。一読して、菅野村長は、一義的に政府を非難することは避けているように見える。起きてしまったことを批判するよりも、政府に実効性のある復興策をとってもらうことを優先しているように見える。
菅野村長は、決して「人災」とは軽々に口にしない。しかし、「スピーディ」が率直に公表されていたなら、中越地震に際しての山古志村のようにありとあらゆる手段を使って「飯舘牛」を安全な場所に移送することが可能だったはずである。しばらく村に帰れなくても、「飯舘牛」復活の可能性は残されていた。これは誰も、そのことを面と向かって言わないが、論理的に明瞭なことである。こういったことも、村長はすべて飲み込んでいるように見えるのである。
偶然であるが、首相とこの村長は名前が似ている。しかし、一国の首相には、故郷や国家を守る気概がない。同じような名前の「村長」には、故郷を守る気概と責任感がある。このことは、現在の日本という国家と国民の運命をはしなくも示唆していると思われるのである。