EG'8において、アダム・サヴェッジはドードー鳥に対する情熱について語り始めます。その話は次々に思いがけない展開
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やるべきことが見つからない。仕事にも勉強にも喜びを感じられない、つまらない。自分なんて何の役にも立たない、自分なんてこの世界に必要ないんだ。でも、貧しいのはいやだ、寒いのもひもじいのもいやだ、欲しいものが手に入らないのもいやだ。寂しいのもいやだ、友達がほしい。モテたい。彼氏彼女も欲しい。病気はいやだ、歳なんてとりたくない、死ぬまで若々しくいたい。近い将来、こうした悩みはすべて解決されるでしょう。この世界は本書が80年前に予言した“素晴らしき新世界”へと確実に向かっているように思われます。別のソリューションを示せないかぎり、あなたはこの“新世界”に取り込まれるか、逆に追い詰められて“不幸になる権利を要求します”と叫ぶしかなくなるでしょう。いずれにせよ“まあご自由に”。でも人間、死んだら終わりです。現世を愉しく生きることがすべてではないですか?著者のハクスリーは由緒正しき「華麗なる一族」のご血統。「下々の者どもよ、あんまり幼稚なことばっかり要求してると本当にそうしちゃいますよ」と、ウィットに富んだ口調で上品に脅されているようで怖い。 すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫) 関連情報
イエス様は人間の愚かさをも愛された人。それなのにそれなのに、聖職者や神学者はときに独裁的(暴力的)だ。キリスト教はイエスが創始者じゃなく、弟子たちがイエスのお言葉を独自解釈で広めていった宗教。ゆえに曲解誤解、我田引水的な解釈も多い。神格化することで不利益なものは極力排除。ところが教えそのものの本質は、いたってシンプル。曰く「隣人(自分以外のもの。つまり汝の敵をも)を愛しなさい」。この「〜を愛しなさい」というのが、シンプルゆえに難しい。何故なら生物は利己的だから。自分以上に人を愛することの難しさ(地球上最も尊い親から子への愛情すら、自己満足という側面を持つ)。しかし殉教すらも自分の魂のために、つまり利己的と判断した場合、果たしてどのような行為が他者を愛することになるのだろうか。…そんな難しいことは解らない。結局人は、自分の孤独を隠すために他人に恋し、それを愛と錯覚しているのだろう。 この映画はけして宗教を否定しているのではない。むしろヨーロッパ文明の土壌としてのキリスト教を肯定し、信仰心の在り方を問うてきているのだ。この映画で誰よりもイエスに対する信仰心の薄かった者はフランス国王であり、枢機卿である。特に枢機卿は権力を信仰しており、宗教は立身出世の道具でしかない。イエスの教えとは真逆である。しかしこれもまた人間の性であり、映画はそれをシニカルに描くだけに留め、あえて糾弾しようとはしない。この監督の素晴らしさだろう。ここで勧善懲悪を前面に出せば、この映画は一般的には受けたかもしれないが、映画としては三流に堕していたところだっただろうから。 信仰心という観点から見れば、グランディエもジャンヌも悪魔祓いの神父も、それぞれがそれぞれに信仰心篤く、いわば本能に忠実である。恐らく、本来宗教の教理とは、本能に打ち勝つ理性を養うことにその目的があるのだろうが、本能に即してイエスに近づくというのは、ある意味もっとも正しい信仰心の在り方ではないだろうか。グランディエは女を神に到る道の道具と捉え(むろん運命の人との出会い以降は考え方を変える)、ジャンヌはグランディエの後ろにイエスを見、イエスとの肉のつながりを求め苦しみ(というより、禁欲生活の中で女の本能が勝り、苦しむことで神との対話を図る)、悪魔祓いの神父はそんな二人を純粋に悪魔に憑かれていると信じ、盲目的な信仰心の篤さゆえに、非人道的な悪魔祓いの儀式も厭わない(ちなみに唯一この映画で悪魔憑きを信じている人間はこの人のみである)。全ては理性の前の本能にしか見えない。 苦しむとは本能に抗うことなのでしょうか。ではその苦しみを受難として喜びに転化させる心は、果たして理性なのか本能なのか。 人間はとにかくかわいい生き物ですよ。そんなメッセージがこの監督からは聞こえる。ヴァネッサ・レッドグレイブ好きの僕としては、非常に満足した映画です。ちなみに悪魔祓いの映画で『尼僧ヨアンナ』と『エクソシスト』とがありますが、前者や『肉体の悪魔』は人間の罪を描き、後者は純然たる霊的なオカルトとして描き、趣旨はまったくの別物です。 関連情報